11-08 メモ

主語=主体=臣民

 

(1)古典派および新古典派経済学においては、「神の見えざる手」が社会体における最適な配分を達成するのだから、市場経済という一種の「自然」に国家が介入することは—彼らにしてみれば倫理的といってもよい—批判の対象となる。だが新自由主義においては、市場経済が「非自然化」される。ネオリベラリストは市場を「自由(リベラル)な」競争によって駆動されるフィールドとして捉えるが、そのような競争それ自体は、所与の条件ではありない。市場を駆動させる「自由な」競争は自明には存在しないものなのだから、それはむしろ国家の介入を通して—フィクションとして—常に生産され、再生産され、促進されなければならない。そのためフーコーが『生政治の誕生』で述べるように、新自由主義体制においては国家装置が「市場ゆえにではなく、市場のために」統治することが、市場の「自律性」が絶えず統治によって外部から支えられることが求められる。市場の「国家からの解放」は、逆説的にも国家の規制と介入によって遂行される。この点においてはイラクにおける「ショック・ドクトリン」とリーマンショックにおける公的資金投入を思い出すこと。新自由主義体制は国家権威主義を必要とする。

 

(2)グローバル資本(資本の帝国的編成)は個々のローカルな国家(ステート)を媒介とし、また国家は統治実践において、ネーションにより正統性を附与されることを必要とする。資本的関係のネットワークに組み込まれていない、「汚染」されていないネーション=ステートを想像することは素朴なアナクロニズムでしかない。ネーションは常に資本=ネーション=ステートの三位一体として、つまり資本とステートの媒介としてある。そして資本は常に既に国境やネーションを超え社会体を侵食しながら浮動する(「資本の文明化作用」、脱領土化と脱コード化)…。

 

メルヴィルは一介の水夫としての経験から(…)地域的な偏見を解体し様々な国家間に信頼を築く商業の力を確信していた」(ギルモア「アメリカのロマン派文学と市場社会」)。

 

(3)「ナショナル・アイデンティティ」が統治に動員されなかった試しはないし、それはこれからも変わることはない。当然、あらゆる概念と同様に「国民」は「非国民」というカテゴリーの構成と分割(「剥き出しの生」の包摂的排除)を通してのみ分節化される。

 

「現象(非本質)/実在(本質)」という西洋哲学の伝統的二項対立を例にとりながら、「概念の分割」についてペレルマンはこういっている。

 

「第二項はたんにあたえられてそこにあるものではなく、第一項を分割するにあたってその諸様相間に上下関係を設定することを可能にする規則のための構成物(コンストラクション)でもある。何が実在であるかを決定する第二項の規則に合致しないものが、見かけのもの、あやまっているもの、悪い意味で現象的なものである。第二項は第一項に対して規範であり、同時に説明でもある」(ペレルマン「説得の論理学」)

 

「国民」や「日本人」という言表は必ず階層秩序的二項対立の下で(メタレベルの規範として自らナルシシスティックに措定しつつ)「他者」を選別し排除している。近代以降のネーションが常にセクシュアリティジェンダー・人種・障がいといったカテゴリーに基づく規範化の下で生を選別してきたこと…「国民」や「日本人」の枠組みに依拠した言説は、たとえ抵抗的であろうとも結局のところ国民国家による排除の図式を是認する隘路に陥ることになる(「戦略的本質主義」あるいは「アイデンティティ・ポリティクス」も、あくまでも最終的には投げ捨てられる「階梯」ということを留意すること)。