アッバス『香港 消失の文化とポリティクス』についてのメモ

 アッバスは“Cultural Forms”を見つめることで、彼が“space of disappearance”と呼ぶ空間における“the cultural self-invention of the Hong Kong subject”を追求する。

 アッバスが“Cultural Forms”ということばを使う利点は、別言すればartということばの使用を選択的に退ける利点は、「高尚」な「ハイアート」、あるいは「ハイ」な「アート」に対する「サブ」な「カルチャー」といったような構成されたカテゴリーを持ち込まずに済むことだ。なぜならそのようなカテゴリーは資本を循環させ蓄積させるために(少なくとも結果としてはそのように資本に仕え、機能する)仮構されたものだからだ。またアッバスは“works”や“production”ではなく“form”に着目するが、そこには素朴な反映論へと還元するのではない批評への志向を見て取ることができるかもしれない(この語が使われる際には、アドルノがとりわけ『美の理論』で論じたフォームの問題構制を意識しなければならない)。

 アッバスは香港について、“There are a number of factors specific to Hong Kong that must be considered in a discussion of colonialism”といっている。例えば、香港における“precolonial past to speak of”の欠如。香港は回帰すべきとされる過去、あるいは失われた本来性のようなタームをもたない(そしてそれらは往々にしてナショナリズムと共犯的な関係を結ぶ概念だが)。より正確にいえば、そのようなタームが構築され実体化される足場となるような過去の不在。そのため、より深く重層的な“postcoloniality”の探求が必要となるし、それはtacticとして要請される。セルトーの区別を参照すれば、固有の地学的な(あるいは地政学的な)「場所(locus/loci)」を措定することのない実践としてのtacticということになる。それはstrategyと異なり、統治権力によってヨーロッパ公法におけるパワーポリティクスの諸関係のなかで引かれた線により囲まれ境界画定されたエリアに、依拠することはできないということだ。そのため“tactic”としての”postcoloniality”の探求において、「香港文化」のようなカテゴリーを用いてCultural Formsのうちに政治的カテゴリーを再生産することもアッバスは峻拒するだろう。

 “Space of disappearance”という命名はそのために必要となる。文化と、文化を通したこれまでとは異なる主体性の案出(subjectivityという語がマスキュリンでヒロイックなsubjectのありかたしか含意していない場合には、それは脱-主体性と呼ぶべきかもしれない)をめぐる探求において、「香港」という、あくまでもフィクティヴな地政学的境界画定を自明のものとして、実体化することを避けなければならないためである。そうでなければ、議論が植民地ナショナリズムへと回収される危険性は捨てきれないだろう。

 ネグリ=ハートは『帝国』においてノマディズム的「移動」を空間的に実体化してマルチチュードを論じた。しかしアッバスの示唆するように、トインビーを引くドゥルーズによって定義された「ノマド」は動かない。しかしその不動性が生成変化(革命的な—)をもたらす。資本的関係のネットワークを通じ労働力や商品や情報が「速度」という知覚を欠落させるほどの速さ(ヴィリリオ)で「移動」している状況では、むしろ「移動しないこと」を分析する必要がでてくる。これは「香港」にかぎったことではないだろう(あるいは、マルチチュードの構成を実体的で移民的な、「空間的移動」に限定してしまうことの問題は、例えばdisability studiesの観点からも批判されるべきではないか?)。nomadicな(脱-?)主体性の在り方。アッバスのpostcolonialityに関する議論は、アウラ的な「消失する空間」で起きた経験や出来事、あるいは創出される新しい主体性のありかたを「香港」という政治的境界に拘束させることなく、グローバルに開いていくことを志向しているだろう。