アドルノに関するメモ

 現実と観念の間の、実践と理論の間の緊張にアドルノのいう「経験」は定位している。観念は常に現実のあるモメントを捉え損い、理論は必ず実践のあるモメントにおいて裏切られる。観念が、理念が、自らにとっての「他なるもの」と出会い、その全体性が裂開した地点においてのみ経験は可能となる(「全体は真ならざるものである」)。

 

細見論文

アドルノの「経験」は、他なるもの、概念を欠いたものへと打ち開かれるところにのみ成立する」

「経験の軸は「主観の優勢」から『客観の優位 Vorrang des Objeckts』へと転換されねばならない。しかし、その経験は『概念による反省という媒体』のうちで行われる」

「概念によって概念を欠いた『異質的なもの』に届こうという『認識のユートピア』」

「現実と概念は社会という同一性の装置をつうじて密通しているのであり、同一性の概念のもつ暴力への批判は、社会批判と切断されてはならない」

 

「哲学はその内容を、哲学に迫ってきたり哲学が求めたりするさまざまな対象の、どんなシェーマによっても整序されえない多様性のうちにもつだろう。すなわちこの哲学は、対象に文字どおりに身を委ねるのであって、対象を鏡として、つまりそこに自らを再認し自分の鏡像を具体的なものと誤認するような鏡として、用いるのではない。このような哲学は、概念による反省という媒体における、何一つ割引かれることのない完き経験にほかならないだろう」(細見による部分訳『否定弁証法』)